工房のあゆみ

粟田山の麓、粟田口の地にある工房。
1世紀以上培われて来た歴史の重み、それは工房のたたずまいからもすぐにわかります。
素材も技量も百年前と同じ、すべての工程を手作業で行う粟田口清信の甲冑づくり、鉄・革・糸など百年前と変わらぬ物をこだわりをもって使い続けています。
初代は江戸時代後期、鍛冶工房を営む職人でした。
現在の京都東山区にある粟田神社[東山区粟田口鍛冶町]近くにて、私どもの先人、良蔵(りょうぞう)は、平安時代の刀工「三条小鍛冶宗近」の流れを汲む鍛冶工房を営んでおりました。
時代背景から刀(小刀)だけではなく、生活用品としての刃物を製作し、武具・防具である『等身大の甲冑』の鉄素材部品の製作と修理、男児出生を祝う飾り『お慶びの甲冑』の鉄素材部品まで手掛けていたと伝わっております。
明治九年(1876年) 民間人の廃刀令(帯刀禁止令)公布。
『飾るための甲冑』を制作する専門工房へ。
年号が明治へと改元されて9年(1876年)、民間人の帯刀が完全に禁止となり、鍛冶工房は窮地に立たされました
そんななか、甲冑師と共に仕事を請けていた経験が幸いし、「飾るための甲冑」を仕上げ工程までこなせる専門工房を目指して舵を取ることになりました。
工房の屋号【粟田口 清信】をもつまで 大正十四年(1912年)良蔵の義子であった市太郎(いちたろう)が工房の二代目代表となります。
その頃の時代背景により屋号は持たず、京都、東京の老舗人形店の品として注文を請け納めておりました。
昭和六年(1932年)良蔵の長男・信太郎(のぶたろう)が工房の三代目代表となったのを機に、屋号『粟田口 清信』を持つ運びとなりました。

工房の伝統の手業のご紹介

昔と同じ素材を使うことに強いこだわりを持ってい ます。
着物を着て靴を履くようなことはしたくない、粟田口の甲冑と呼べる最低限のラインを守りたい、代々培ってきた節句への想いを大切にしたい。